人間愛-石館守三先生が残したもの-(第1回)

アスカ薬局(元日本薬剤師会会長) 佐谷圭一

1.はじめに

 ただ今ご紹介を頂きました前会長の佐谷でございます。皆様には大変な風雨の中をお出かけ頂き私の講演を聴いていただくことに感謝を申しあげます。

1年ほど前、私が敬愛する石館守三先生のお話をするようにと青森県薬の類家会長からご下命を受けました。それから大変苦悩いたしました。石館先生は万人が認める巨人でありまして、先生のことを訪ねれば訪ねるほどその大きさと深さが増してきます。

結局、私は次のような事柄に焦点を絞らせていただくことにしました。縦軸になりますのは、昭和57年3月8日の「退任の辞」であります。石館先生は日薬会長を約12年間に亘って務められました。辞する時には自身の赤裸々な述懐、そして過去現在未来の薬剤師に対する想いを率直に述べられています。私も退任する時は、そのような思いでありましたから、石館先生のお気持ちが今になってよく分かります。

横軸には、三つの事跡を挙げたいと思います。

第一は当地の松丘保養園でハンセン病の患者さんに出会ったことから、先生は自分の人生の大きな目標としてハンセン病の治療薬の研究をしょうと決心なさったことです。そしてプロミンを合成することになります。これは、戦後にプロトミンとして吉富製薬から発売されますが、そのプロセスが劇的でした。

第二は本日の午前中に、日薬賞、日薬功労賞の贈呈がありましたが、その副賞である薬師如来のレリーフに関してでありますが、どうして奈良の元興寺の薬師如来像が選ばれたかということであります。このレリーフは最初は海外の日薬名誉会員のために作られたと聞いておりますが、同時に日薬に貢献した方々に贈ろうと石館先生が作られたものであります。

第三には、昭和49年(1974)がいわゆる医薬分業元年といわれたのは、その陰に「石館・武見会談」なるものがあり、結果として、前年まで5点であった処方せん料が、同年に10月に50点になったからであります。その「石館・武見会談」とはいかなるものであったのか。私にとってもこの事は、興味津々たるものがあります。その理由の一つは、同年4月に石館執行部に加わったゆえんによります。それまで行っていた「薬歴運動」がみとめられて、石館執行部に加わって全国に普及するようにと使命を託されたからであります。私の35歳の時のことでありました。

また、今回のお話をするのに際しまして、石館元会長のご長男である石館基先生及び吉矢佑元会長、望月正作元副会長、吉田俊元副会長、田村善蔵元副会長(元東大教授)の方々に時代の証人としてお話を伺いました。高いところからではありますが、篤く御礼を申し上げます。

2.日薬に舞い降りた鶴のたとえ

 石館先生の日薬会長「退任の辞」の一節をご紹介いたします。

「私が日薬の会長に就任したのは、昭和45年(1970)年12月である。本期で11年4カ月の期間である。私が国立衛生試験所長の任にあった時だった。前会長武田孝三郎氏没後の残任期間からである。」ということは、第18代会長武田会長が急逝された後、国立衛試所長時代に時の日薬代議員会の総意を持って懇望され、衛試所長を途中退任して45年12月1日をもって第19代日薬会長に就任されたのでした。武田孝三郎会長(当時)は、アメリカから薬剤師使節団を招いたりした大変な国際人でしたが、現役会長のまま病を得て同年9月に急逝されました。丹羽籐吉郎会長(第9代日薬会長)も現役で急逝されましたが、歴史的にはお二方とも医薬分業に貢献された大先達でありました。

「日本薬剤師会会長への就任要請に対しては、直ぐには決断できなかった。私としては東京生化学研究所と新たに発足準備中の「食品・薬品安全センター』建設の世話を引き受けなければならない立場にあり、かつ、周囲の門下の人達は、日薬入りには反対であった。」石館先生は、すでに古希を超えていらっしゃいました。

「齢、既に70で余命を何に捧ぐべきかを熟考した。直接、研究はできないまでも学究者として後始末への未練も強い。一方、薬業の家に生まれて、青年時代の発心であった日本の薬学・薬業のために尽くすことを自分の使命とした初心と、そして日本の薬剤師職能のおかれている現状に思いを致し、日薬が私を必要とするなら、そのために余命を捧げることに意義を感じ、反対を押し切って引き受けた。」先生は、青森の薬種問屋に生を受け、「本当はお前が跡を継ぐのだぞ」と云われたお父上の願いを果たせなかった。日薬の会長になることで少しでもその責めを果たせるか、とも考えたと、後年、述懐されています。日薬の会長になられた時に、日薬に一羽の鶴が舞い降りたとも云われました。石館門下の代表である田村善蔵先生に「掃き溜めに鶴と、田村先生が云われたのでは」と伺いますと、田村先生は「いや、私は、白いハンカチが汚れるからと云ったんだよ」と、笑っておられました。その田村先生もその後、日薬副会長の重責を担われました。石館先生の会長就任の裏には、今は亡き父上に対する親孝行の気持ちも強かったと思われます。

※本稿は、平成16年10月10日(日)に、青森市文化会館で開催された第37回日本薬剤師会学術大会特別講演の内容をもとに、加筆したものです。【薬剤学 Vol.65, No.3 (2005)より】