人間愛-石館守三先生が残したもの- (第2回)

アスカ薬局(元日本薬剤師会会長) 佐谷圭一

3.ハンセン病薬・プロミンのこと

「ハンセン病とともにあって、プロミンとの巡り会いがあった。」平成5年に先生はそう私におっしゃいました。松丘保養園、多摩の全生園、長島の愛生園とも先生は深く関係されていますが、プロミン誕生の秘話には私は強く感銘しました。ここにプロミンの構造式(図1)があります。いわゆるDDSの構造式です。

プロミンの構造式(図1)

昭和16年といえば第二次世界大戦への日本の参戦の年です。前年に日独伊の三国同盟が結ばれ、それが縁で昭和17年に時のヒトラー政権のドイツから極秘裏にいろいろなドイツの科学的成果が日本に送られてきたようです。時代に名だたる優秀な潜水艦Uボートで運ばれたと云われています。その中にこのDDSが人っていたのです。目的は結核治療ということでスルホン剤の化合物として開発されたものですが、効力も強いが毒性も強くて治療には適さないものだったそうです。当時、東大の分析学の教授をしていた石館先生の詐には国家機密が送られて来ていたのです。

そんなある日、石館先生が国際的なハンセン病の雑誌を見ていると一行の報告が目に付きました。それは米国ハワイの海軍病院にあるカービル研究所で、このDDSをハンセン病に使ったという論文報告の題名だったそうです。論文の中身は掲載されてはいませんでしたが、石館先生にはひらめくものがあったのです。それから先生はDDSの合成を目指します。ドイツからの報告文に構造式だけで合成法は載ってなかったのです。そして、遂に昭和19年に自力でDDSの合成に成功します。先生は、これを当時の多摩の全生園や長島の愛生園へ届けて治験の依頼をしましたが、ここにいる患者さん達は、治らい新薬といわれるものの治験には、副作用ばかりで効くものが無かった経験者ばかりで懲りていて一人も使ってくれる患者さんは居なかったとそうです。そうこうしている内に戦争も終わりに近づく頃、中国から一人の傷痍軍人が復員してきます。その人がハンセン病にかかっていて、自分は目が見えなくなってきているから、死んでもいいから、いい薬があったら使ってくれと云われたそうです。

全生園でこの患者さんに数ヶ月の間、石館プロミンを静注すると、なんと目が見えるようになりハンセン病も治ったというのです。その事を知った患者さん達から治験の申し込みが相次ぎましたが、時は終戦の間際、石館教室では治験薬の合成もできなくなっていたそうです。再開は昭和22年、そんなに効くのであればと厚生省が乗り出し、当時の武田薬品の吉富工場で本格的な生産にのりだしました。これが有名な静脈注射剤の「プロトミン」です。当時、ハンセン病患者は原則国立療養所に収容されていました。したがって「ブロトミン」は生産品全てが国家買い上げとなり、療養所での治療に使われました。この後、史上に有名な「プロトミンよこせデモ」があります。国家予算で6千万が支出予定になっていたものが、1干万に削られたのを患者団体が怒り、日比谷公園でデモが起きました。時の厚生大臣に患者が直に面会して予算復活を要求した結果、5千万に復活して収まったという事件でした。しかし、その後、ハンセン病が治ると解ると全国に潜在していたかくれ患者が名乗りを挙げ、プロトミンの需要は予想よりはるかに増やされました。

昭和24年、前述のジェンキンス米国薬剤師協会会長が来日したときもこの山口の吉富工場を見学しましたが、同年、日本の復興を賭けて全国巡行をされていた天皇陛下ご夫妻も視察されて大変な激励をされたと吉富史に残っています。その2年後の昭和26年、米国でもDDSがハンセン病に応用されてその効果がはっきりした時点で、米国から3人の医師が来日して、DDSが白人のハンセン病に効くのは解ったが、東洋人のハンセン病にも効くかどうか試験をしてくれと云ってきたそうですが、その時は、もう日本では石館プロミンによってほとんどのハンセン病は治癒していたのです。これには米国の医師も大変驚いてしまったと云われています。特許違反ではないかとの話もあったようですが、石館先生は独自の製造方法を編み出していたことと、元をただせばヒトラー政権下作られたものを、ドイツから米国に亡命した科学者が米国で作ったものなので今では、笑い話の一つになっています。

石館先生が色紙の書かれる言葉の一つに、「真理は全て神によって用意されたものであるから、人間にと’って真理の発見はあっても発明ということはない。」というものがあります。キリスト者にして化学者であった石館先生らしい謙虚な姿勢です。

4.薬師如来像のレリーフ

退任の辞を続けます。「私の予想に反して、これを喜んでくれたのは」というのは、日薬の会長になることを、恩師の朝比奈泰彦先生に報告に行かれところ、怒られるかと思いきや、朝比奈先生が喜んでくれた事を指しています。「これを喜んでくれたのは、恩師・朝比奈泰彦先生であったのも忘れがたい感慨である。朝比奈先生は学究一筋の学者であったが常日頃から薬剤師職能の向上に関心を持たれ、これまで日薬のために具体的に協力できなかったことを悔いておられた。その償いの一部として、日薬賞の副賞となっている薬師如来像の写真原板を寄贈された。」どのような経緯で朝比奈先生がこの写真原板をお持ちになっていたかは、現在では定かではありませんが仏教と薬剤師について関心があったことは事実でしょう。実は、石館先生が朝比奈先生に第19代日薬会長に就任するという報告に伺った時、石館先生は、恩師から叱られるのではと思っていましたが、返って大層喜んでいただいた。その時、石館先生は古希を超え朝比奈先生は卒寿を超えられていたのです。朝比奈先生はこう云われたといいます。「私は、今まで薬剤師会に入っていなかった。 それは大変申し訳なかった。だから、薬剤師になってからの会費分を薬師如来像の写真と一緒に寄贈したい。」石館先生はこのことを記念して、そのお金をレリーフを作る費用に当てたということです。
実は、この写真原板こそ、今は奈良博物館に秘蔵されている国宝である元興寺の薬師如来像でした。


今、スライドで映している如来像(図2)は、奈良県薬剤師会前会長の喜多稔先生から戴いたものですが、本日の講演に合わせて青森県薬剤師会へ寄贈するために大きな額縁人りの写真を喜多先生みずからが、台風の最中、お持ちになって来られています。この薬師如来像は、日本最古の飛鳥寺に飛鳥大仏と一緒にあったものを、奈良へ遷都する時に、元興寺に移されたものだとお聞きしています。私の薬局はアスカ薬局といいますが、開局にあたって憧れの飛鳥時代から取ったものです。喜多先生は、この如来様のお顔のあごのあたりが、石館先生にそっくりだとおっしゃっていました。

昨日、石館先生と同じご当地青森の出身の宗像志功記念館に行ってきましたが、その中に、四人の如来像という作品があり、「施無畏」と名付けられたものがあります。この施無畏の印は、薬師如来の右手の印も同様であります。人聞が誰でも持っている「死に対する畏れ」を無くすことを施す印として有名です。四苦とは生老病死(しょうろうびょうし)のことですが、年老いるのも病むこともひいては生きていること自体が死ぬことに繋がるで、苦の根本がこの四苦によって現されています。薬師如来は、まず右手の印でこの人間の根本苦を取り除き、それから左手に持っている薬壺からくすりを取り出して与えるのです。薬剤師も病む人のためのカウンセリングが重要です。くすりは「苦をすり減らす」ものだとも云われています。朝比奈先生は、そのような想いを愛弟子石館先生に託したのでしょう。石館先生は、その想いを絶やさないために日薬賞の副賞としてレリーフの形として残されたのでしょう。

※本稿は、平成16年10月10日(日)に、青森市文化会館で開催された第37回日本薬剤師会学術大会特別講演の内容をもとに、加筆したものです。【薬剤学 Vol.65, No.3 (2005)より】