「薬剤師への道標」 (第1回)

1.はじめに

おはようございます。佐谷(さや)です。佐谷という名前は珍しいのですが、ここに出ていますように、佐藤の佐に谷です。関西に行きますと、「さたに」になります。大谷の「おおや」も「おおたに」になったりしますが、関西では谷はよく「たに」と読みます。関東では「や」になるということであります。きょうは、縁あってこの大学に呼ばれまして、「何でもいいから好きなことを話せ、これから希望に燃えた薬学生が100名内外入ってきたから、おまえの言いたいことを言え」ということでありますが、いわば、私にとっては薬剤師の遺言みたいなもので、これから薬剤師になる方に、こういうことだけは伝えておこうということであります。

2.「私」とは何か

きょうは始まって何日目ですか?土曜日からですか。皆さんにまず少し質問したいと思いますが、4年終わって薬剤師になりたいという方、手を挙げていただけますか(全員手を挙げる)。薬剤師になりたくないという方、いますか(手を挙げる人なし)。薬学部に入って、薬剤師になりたくないというのは手を挙げにくいかな。
薬剤師とは何か、という問題があります。皆さん、薬剤師というのは、病院の白衣を着た格好いい女性の薬剤師とか、薬局にいる薬剤師、あるいはメーカーのMRというように、いろいろな映像が頭の中に交錯すると思いますが、薬剤師とは何かという前に、やはり「私」とは何か、という問題があるんですね。人間とは何か。たまたまこの学校は浄土真宗を基盤にした、宗教の匂いのするというか、宗教の味のする学校ですが、私は40歳に近いところから宗教に興味を持ちまして、それ以来、薬剤師というものも非常に味が深くなったんですね。やはりキリスト教でも仏教でも、イスラム教でも、そういうものをどこかでかじっておく、あるいはその真髄に触れていくということは、これから医療に携わる、あるいは患者さん、病める人、そういう人たちに対応する時にとても必要な心なんですね。いままでの薬学部では教えてくれない。齋藤先生(薬学部長)がいらっしゃいますけれども、私はいちばん薬学部で足りなかったのは、そういう哲学とか宗教を含めた教育だったと思います。これから皆さん方が社会に出て、病む方々と接する場合には、そういう心が最も必要であって、いままで最も欠けていた部分であると思いますので、そういうことをこの大学で学んでいっていただきたいというふうに思います。

3.元旦の計はいずこにありゃ?

最初に申し上げたいのは、このことであります、「1年の計は元旦にあり」。1年の計は元旦だけれども、実際には4月2日に入学をして、この学校に入ってどういう計を持たれたか。あるいはどういう4年間の計画を持ったのか。この質問は、私はちょうど30歳になった時に自分で薬局をやっておりまして、これから漢方の勉強をしたいということで、荒木朴庵(あらきぼくあん)という有名な漢方の先生のところに勉強をしに行こうと思ったら、「元日に来い」とおっしゃる。なぜ元日に来いと言うのかなと思いながらも、元日に行くと、「まあ、お座りなさい。1年の計は元旦にある。元旦の計はいずこにありゃ?」という質問をいただいたんですね。ここで、皆さんの答えを少し聞いてみましょう。
「12時ジャスト」(学生)
12時ジャストというのは、12月31日から1日になる12時のことですね。はい、では次。
「分からないです」(学生)
分からないというのも答えなんですよ。大変いい答えです。次。
「分からないです」(学生)
前のほうに座っていると、多少犠牲者になるかもしれませんね。
「分からない」(学生)
女の子があまり前にいませんね。どうですか。
「考えたこともなかったので、分からないです」(学生)
「分からない」(学生)
「お昼の12時でしょうか」(学生)
他に誰か……。これは、一種のひらめきなんです。薬剤師というのは感性が大事です。だから、ひらめきというのは非常に必要なんですが、誰か自信はなくてもひらめいたという人、いる?これは非常に重要なことです。この問題が解けないと、私という問題が解けてこない。
当時、私は30歳で、先輩と後輩の3人で行きました。荒木朴庵という大先生が前に座っていて、私は3人のうちで3番目に座っていたので、いま1番に聞かれた方は不幸ですよ。というのは、全然考える暇もなく聞かれている。2番目の方はちょっと間があったから、少し考える時間があった。3番目の人もそうですね、後の人は少し考える時間がある。同じように質問されて、1番目は、「元旦の日の出にありますか」と答えたんですね。いまの人は12時と答えましたが、12時というのは時間ですね。日の出というのも時間。これは、本当は先生に聞くといいんだけれども、先生に聞くとちょっと難しいし……だいたい本学の学院長をはじめ学長先生も、これはお坊さんですから、この問題は全部解けている方々ですからね。そして2番目は、「分からない」と、こう答えた。これも正解なんです。ここにいらっしゃる方たちは、18か19歳ですよね。あるいは遅くとも20、21歳。それで人生のこの問題が解けたら、それは素晴らしい。僕が実際にこの問題が解けたのは、40の時ですから。30で質問をふられて10年間かかっていますから。
それで、私がその時に答えたのは、「私の心の中にあります」と、こう言ったんですね。これは逃げです。つまり、「いずこ」という問いの中に二つの問題が入っているんですね。場所と時間です。だから、12時という答え方をした方は、時間というものがまず頭に浮かんだ。「分からない」というのは、時間も場所もいろいろと考えたと思うんですね。おそらく何秒かの間に地球を何周かするぐらいクルクル考えて、結果的に「分からない」と言ったほうがいいと決定したと思います。それで、私は分からなかったので、場所か時間かと迷ったのですが、「私の心の中にあります」と。実は、心の中には何もなかった。しかし、「私の心の中に、私の計画はある」という意味で言ったのですが、その先生はニヤッと笑って、3人とも漢方の入門の許可をされました。
なぜここでその話をするかというと、これがいちばんの問題だからです。この答えは、人間が生きていく、生きる、生きているというのはどういうことかというと、結局、「いま」と「ここ」の連続の中にいるということなんですね。人間というのは「いまここ」、「いまここ」で生きていくんだと。そうでしょう、昨日生きたという実感はない。明日生きるという実感もない。いま生きているという実感だけです。ここは7号館ですが、いま7号館のこの部屋にいて、いま話を聞いているという実感はある。その連続体で人間の「生きる」ということが実体として自分で確かめられるんですね。

4.「いま」と「ここ」

人間の一生というのがあります。一生は70年か80年か分かりませんけれども、たとえば佐谷圭一の一生というのは、いま私は66歳にならんとしていますが、70歳で終わったとしましょう。0歳で生まれて、70歳で死んだ。佐谷圭一という人生のハムがここにできますね。あなた方のお父さんだって、お母さんだって、お祖母ちゃんだって、お祖父ちゃんだって、みんなそういう一生を送ってきて、例えてみれば一本のハムができている。
このハムをどこかで切ったとしましょう。あなた方のいま18歳何ヵ月のところでパッと切ったとする。これは亡くなってからの話ですよ。そうすると、「いまここ」の連続だとすれば、18歳何ヵ月の「いまここ」でしょう。ここの、「いまここ」があるわけです。この、「いまここ」というところを手抜きをして、「きょうはつまらなそうだし、夕べちょっと遅かったから、この時間ちょっと寝ていよう」と考える。「今晩楽しいこともあるし、昼間の授業はサボってみよう」と。それもいい。そして、スパッと後で切った時に、本当にそこから鮮血ほとばしる、血がほとばしってくるような部分と、腐った臭いのするような部分と、二つ出てくる。人生というのはそういうものですね。つまり、「いまここ」の連続体であるということは、実は、人生手抜きができない。手抜き、手抜きでやっていくと、全部この人生は手抜きになってしまう。寝ていようと考えたら、全部寝ている間に人生が終わってしまいます。自分の人生、自分の命というのは、必ず終わるんですよ。いま、何々がんの死亡率が30%だとか20%だとか、50%だとか言われるけれども、人類の死亡率というのは100%です。必ず死ぬ。年老いて死ぬ。病気になって死ぬ。ということは、いかに「いまここ」という時間が大切かということですね。その時間であなた方は生きているわけですから。その時間を手抜きをすうか、どんなつまらないことでも全力でぶつかるか。どんなことがあっても、その一瞬一瞬に全力でぶつかっていくか。笑う時は笑い、泣く時は泣く。全力でぶつかっていけば、この人生というものは、全力をかけた素晴らしい人生になるけれども、手抜き、手抜きでやっていこうと考えたら、いつの間にか人生は全部手抜きの人生になってしまうということです。
そういうことですから、それに気がついたら、「いま」と「ここ」。Now and hereですね。Now and hereというのは、ものすごく自分の人生そのものであると考えると、手抜きができない。私はこれを40にして知ったから、ちょっと遅すぎた。それからしかし、できるだけ手抜きはしないようにしていますが。

 

本稿は、平成16年4月8日 に武蔵野大学薬学部にて開かれた特別講演を元に作製されております。