「薬剤師への道標」 (第4回)

11.阪神淡路大震災での薬剤師の役割

 いまから10年くらい前に、阪神淡路大震災がありました。神戸から来ている方はいますか?来ていない?大阪、近畿から来ている方は?(手が挙がらない)この阪神大震災の時に、私は日本薬剤師会にいたんですね。その日、ちょうど朝10時頃から会議をやっていた。そうしたらテレビで、朝早く神戸で大きな地震があったと。そしてお昼頃には、どうも大災害になっているということで、お医者さん、看護婦(現看護師)さんに、現地へ行ってほしいとテレビで呼びかけられたんですね。その時に、薬剤師ということは出てこない。お医者さんや看護婦さんに来てほしいとは言っているけれども、いつまでたっても薬剤師に来てほしいという言葉は出てこない。2日目になっても医師、看護婦、レスキュー、こういう言葉だけで、薬剤師という言葉が出てこない。そして3日目になりましたら、現地から、薬剤舗が足りないということが初めて大阪府薬剤師会を通して入ってきた。その時に、神戸にある兵庫県薬剤師会館というのは6階建ての建物だったのですが、ひっくり返ってもうほとんど滅茶苦茶になってしまって、兵庫県薬剤師会というのは機能しなくなっていた。そのために大阪府薬剤師会というところに入ってきたんですね。
あそこに八尾空港という空港がありまして、飛行機で医薬品その他ミルク、いろいろな介護用品すべてがこの八尾空港に運ばれたわけです。3日の間に、ものすごい量が来た。そして、八尾空港から神戸市内の消防学校というところに運ばれたのですが、この消防学校の校庭が大きいものだから、この校庭の中に、八尾空港から持ってきた医薬品を全部野ざらしで積み上げたわけです。ところが4日目になって、大雨の予報が出た。ここに医薬品が野ざらしになっている。雨が降ったら全部ダメになるだろうという話になったんですね。神戸市内の病院も、救急のいろいろなもの、それから学校に収容所ができて、そこに特設の診療所ができていますから、医薬品が欲しい。で、この消防学校に医薬品を取りに来る。もう薬局も潰(つぶ)れて、問屋さんも潰れたり火事になっていて、医薬品はほとんどなくなってしまっているし、あった医薬品も2日目くらいに使い切った。この医薬品を何とかしなければいけない。それで、ここにいたのが、この消防署員と警察官だったんですね。消防署員と警察官のところに行って、抗生物質のこういうものをくれとか、解熱剤をくれと言っても誰も分からなかった。明日雨が降るというのに、品物だけは山と積まれていて、品物を仕分けして出す人が誰もいなかったわけです。警官と消防隊員が手を挙げた。分からないと。医薬品というのは正体不明だ、いったい誰がこれを分けて出すのか。それはどうも薬剤師という種族らしい。薬剤師というのが出てくれば、これは何とかなるに違いないというので、そこで初めて3日目になって日本薬剤師会に、薬剤師を何とか100人くらいここに送ってくれないかというのが来たんですね。
そして、近隣の奈良とか大阪から薬剤師が50人ばかり行きました。行って、この中のこれは抗生物質、これは解熱剤、これは血圧を下げる薬、というようなことをやっていたのですが、その50人が、行ったきり帰ってこない。昼夜兼行でやるようになってしまったんですね。それで、行った薬剤師が悲鳴をあげて、ちょっと行って手伝って帰るつもりがとんでもないと。行くのさえ大変で、オートバイに乗ったり歩いたりして行ったわけですね。それで、あと50名ずつ二つの隊を送ってくれと。8時間労働でどんどん交代しないとできないということで、だんだん薬剤師を全国から募集して送るようになって、結局2000名送っているのですが、薬剤師というものが、初めて災害の中でなぜ必要かということが分かってきたんですね。
私も1週間目ぐらいで現地に行きました。交通機関はなかったものですから、最後は歩いて入って、現地の保健所を6ヵ所ばかり回り、目薬、厚生省に連絡を取っていたのですが、もう、すごいことになっていましたね。風邪薬というのはいつぱい来るんですよ。医療用の医薬品というのはたくさん来ている。私は現地へ行って、六甲小学校というところに入っていたのですが、六甲小学校に行くと、ボランティアのお医者さんや看護婦さんが来ているんですね。医薬品はどうやら流れてきて、瓶に入ったものとか缶に入ったものが来る。それでお医者さんが、この人にはこういう薬の処方を書いて出す。出したのはいいけれども、薬剤師はお手上げなんですね。まず秤がない。天秤がない。メートルグラスがない。分包するにも何もない。一切お手上げなんです。薬は山と積まれてあって、薬剤師がいて、医者が処方せんを切っていて何もできないという状態だったんですね。これは弱った。
結局どうしたかというと、そこに大衆薬がたくさん来ていたんですね。風邪薬、総合感冒剤。ちょうどあれは1月の末ですから風邪が流行っていて、子供から大人までみんな風邪をひいて熱があったわけです。その子たちには抗生物質は何とか粉で一服ずつ来ていますから、半分飲めとかそういうことで出すのですが、薬を混ぜられない。大衆薬のシロップはお母さんが目分で計って飲ませるようになっていますから、ちゃんと軽量カップが付いているんですね。それを渡してやりましょうということで、医療用医薬品というのはこの時ほとんど役に立たなかった。

12.イチジク浣腸が化粧品?

もっと面白い話があります。それは、水道が止まってしまって、特に下水路が止まっていますから、いちばん困るのはやはりトイレの小の方よりも大の方ですね。校庭に大きな穴を掘って、板を渡してそこでやるしかない。何千人という人たちが避難してきていますが、学校のトイレも水洗だから全部使えないわけです。水洗トイレはどうするかというと、トイレ(?便器)の下に新聞紙を敷いて、その上に大をやって、それをビニールでくるんで持ってきて、校庭に穴を掘って埋めるという作業をやっていたんです。そこに、どういうわけかイチジク洗腸(かんちょう)という浣腸がいっぱい来ていたんですね。どうしてこんな時に洗腸なんかがたくさん来るのだろうと思ったのですが、どうも食べ物で野菜がなくなるから便秘をするだろう。便秘には洗腸がいいだろうというので浣腸を送ってきたんですね。便秘も大変だから。
ところが、便秘をさせておけという指令が出た。トイレがないんだから洗腸なんかさせて出させるな、と。それで、浣腸は一切渡してはならないというお達しが出て、学校とか保健所に浣腸がいっぱい積んであるわけです。それを私はずっと見てきた。現地に行ったらどういうことになっているかというと、若いお母さん方が子供におっぱいをやって、ミルクは何とかあったのですが、お風呂に入っていませんから、1週間、2週間の間にその若い母親の手がアカギレだらけになっている。顔なんかも、本当に洗っていないような状態で、もう見るも無残な手になっている。やはり子供のために一生懸命おむつの洗濯をしたりしていますから、手はボロボロですね。ところが、ハンドクリームなどは一つも来ていないんですね。風邪の薬とか抗生物質とか、鎮痛剤とか、怪我の薬はたくさん来ているけれど、ハンドクリームなんていうのはどこにもないわけです
そこで私は思いつきました。あなた方も、これから勉強すると分かると思いますが、浣腸の中身というのは50%グリセリン液なんです。グリセリとというのは保湿剤です。化粧品にもよく入っていますが、50%水さ薄めたグリセリン液なんです。ここにたくさんあるじゃないか。お尻に挿すのではなくて、浣腸を顔に塗らせようと。それで薬剤師が説明をして、これは50%グリセリンだから、お尻に挿すのではなくて、しぼり出して顔に塗りなさい。手に塗りなさいと言って、浣腸を配ってあるいたんですもこれは喜ばれましたね。看護婦さんにしろお医者さんにしろ、洗腸の中身はいったい何かということは、よく聞けば知っていたのかもしれませんが、気がつかない。薬剤師だから、洗腸の中身は50%グリセリンだということに気がついた。当時、携帯電話が結構普及していましたから、携帯電話でパーつとその指令を出したわけですが、いろいろなところで溜めてあった浣腸があっという間になくなった、というのが非常に面白かったこと・・・・面白いというのは申し訳ないけれども役立って、薬剤師で良かったなと思った事件でした。

13.「10粒のケシの実」の話

同じように、やはり仏教説話のひとつですけども、「10粒のケシの実」という有名な話があります(スライド)。それは、当時のインドで非常に貧しい村の生まれの若いお母さんが子供を産んだけれども、その子が生まれてすぐに亡くなってしまった。ひ弱だったんですね。そのお母さんは死んだ子供を抱きしめて、お釈迦様のところにやってきて言います、「あなたは何でもできると聞いているから、この子を生き返らせてくれ。できるじゃないか」と。お釈迦様には神通力というのがあって、何でもできると聞いているから、生き返らせてくれと言うんですね。そこでお釈迦様は何と言ったと思いますか。「できる。やりましょう」と。不可能なことを言ったんですね。なぜ言ったか。これもここから問題になるのですが、「できる、やりましょう。しかし・・・」と、条件をつけるんですね。「10粒のケシの実を村で貰っていらっしゃい」。ケシというのはモルヒネの原料ですね。鎮痛剤になっていて、いまはがんの時によく使うでしょう。当時のインドでは、ケシの実というのは村の農家がみんな持っていて、痛み止めに使ったり、いろいろなことをやっていたんでしょうね。だから持っている。
そこで、「ただし」がまたっくんですね。「ただし、その家から一件もお葬式を出したことのない家から貰っていらっしゃい。そのケシの実があれば助かる」。当時、インドというのは大家族制で、ずうっとお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも一緒に住んでいますから、実は、お葬式を出したことのない家というのは・・・日本では出していない家もありますけども、インドではないんです。ないことを知っていて、お釈迦様は言っているんです。何百年の間にお葬式を一度も出したことのない家というのは、そのインドの村にはないわけですが、しかしその母親は、どこかにあるに違いないと思って10粒のケシの実を求めてその村を回り始めるんですね。条件としては、一回もお葬式の出したことのない、つまり、先祖が死んでいないという意味です。朝から晩まで村中を回ったけれども、結局、一軒もそういう家を探せなかった。ということは、その死んだ赤ん坊は生き返らないということになります。

14.薬とは苦をすり減らすこと

さて、そこでどうなったかという問題です。その母親はほとほと疲れ果て、日暮の道をお釈迦様のところに帰ってくる途中で、はっと気がついた。なぜかというと、村を回っている間に、「うちの子も昨日死にました」「うちのお祖父ちゃんも死にました」「お祖母ちゃんも死にました」「赤ん坊が死んでいます」ということを、何十軒も回っている間に言われてきたんですね。そこで初めて、人間というのは死ぬものなのだということが分かった。生まれたということは、生きているということは、死ぬんだということが分かったんですね。死んで当然なんだということが分かってきた。死んだ子は、生き返ることはない。そういうことからその女の人は何を考えたかというと、これはもうお釈迦様に言っても無理な相談だ。人間というのは死ぬんだといことが分かった。ならば私もお釈迦様のように出家、して、自分の子供の菩提をずうっと弔おうと考えて、お釈迦様のところで出家をします。これが、いわゆるお釈迦様のもとで女の人が出家をした、初めての尼僧の物語として書かれるんですね
つまり、そういう悟りというか、真理を見極める、明らかに見る、明らめる(?諦める)、諦念ということですが、では、薬というのはいったい何だということになります。苦をすり減らす、苦しみをすり減らすのが薬であるというんですね。そうでしょう、痛い時に飲む。痒い時に飲む。苦をすり減らしていく。
そこで、この「苦」とは何か、といういちばんの問題ですが、これがこの学校のいちばんの特徴なんですよ。武蔵野大学のいいところは、将来、じっくりと教えてくれるだろうというところで、まず四苦というのがある。四苦八苦の四苦です。これは、生老病死(「せいろうびょうし」ではなく、「しょうろうびょうし」と読みます)、この四つがある。死ぬということは苦だろうということは分かりますね。死んでしまうかもしれないというのは若いからあまり考えないかもしれませんが、僕はもう長嶋さんクラスですから、いつ倒れてもしょうがない。身に迫ってくる。その前に病気になってしまう可能性がある。病気は、なっても苦しい。その前に年老いてくる。自分で若いつもりでいても、外から見ればもう年寄りです。だんだん体力もなくなる、視力も悪くなる。そういう年老いるという苦しみがある。それは、生まれているからなんです。生まれてくるということ自体が、生まれたら必ずあなた方も年老いて、どこかで病気になって死ぬ可能性を持っている。生まれるということ、生きているということは、死ぬことに繋がるんですね。年を老いるということは死ぬことに繋がっていく。病むということも死ぬことに繋がっていくんですね。ですから、人間の四苦、この生老病死といわれる所以は、生きている、生まれてきたというところから始まってしまう。そして、年老いる。病気になる。死んでしまう。この苦を少しでもすり減らしてやるものとして、薬というものをあみ出したということもいわれている。特に、病むということを中心に、年老いるということもある。生きているうえで薬というものは必要になってくる、そういう薬に係わるというのが薬剤師なんですね。
先ほどの逸話に戻ると、死んだ子に対して薬を与えようとしているのではない。生きているお母さんを救おうとしているんですね、お釈迦様は。生きて悩んで、自分の子供を生き返らせたいと思っているお母さんを救わないことには、人間というのは救えないという話ですよね。