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アピール:イレッサ薬害の真摯な検証のために

2011年8月1日
(2011年9月12日記載事項一部変更
新薬学研究者技術者集団

1 はじめに

 2002年7月,わが国は肺がん治療薬「イレッサ」(ゲフィチニブ)を,承認申請からわずか5か月という異例の短期審査に基づいて世界に先駆 けて承認した。しかし,その発売直後から間質性肺炎などの重い肺障害で死亡する患者が相次ぎ,その数は,2010年9月までに確認されただけでも819人 に及んでいる。

 このような事態のなか,イレッサの副作用被害者と遺族は,2004年に被害の救済を求めてアストラゼネカ社(ア社)と国を提訴した。2011 年1月,大阪・東京両地裁はイレッサによる副作用被害について,国とア社には患者を救済する責任があるとの「見解」を明らかにし,和解協議をとおして早期 の解決をはかるよう勧告した。しかし,国とア社がこの和解勧告を拒否したため,大阪地裁(2月25日)と東京地裁(3月23日)は,相次いでア社と国の責 任を認める判決をくだした。これに対して国とア社が控訴し,原告側も対抗策として控訴したが,被害発生からすでに8年以上もの時間がたち,原告の一刻も早 い救済が求められている。これ以上訴訟を長引かせることなく,大阪・東京両地裁の和解勧告の趣旨に沿って,話し合いによる早期解決をはかるべきである。

 2010年8月,薬害イレッサ訴訟統一原告団は6項目にわたる全面解決要求書を発表している。要求書では,国とア社に,この事件への責任を認 め被害者・遺族へ謝罪し,損害を賠償するよう求めるとともに,薬害イレッサ事件を検証し,薬害の再発防止に取り組むことを要求している。これまで,薬害ス モンをはじめ多くの薬害訴訟では,被害が詳細に検証され,その結果が薬事法制の不備や医療のあり方を正すうえで大きな役割を果たしてきた。しかしこれまで のところ,イレッサ薬害の検証はきわめて不十分なままに止まっている。イレッサ薬害を真摯に検証することは,厚生労働省や製薬企業はもとより,医薬品の開 発,承認審査,薬物治療などにかかわるすべての専門家にとって,被害者の犠牲に報いるためにも,患者市民から信頼される医療を実現するためにも避けて通る ことのできない課題である。
このアピールは,イレッサ薬害を検証するための一助となることを期待して,この薬害をめぐるおもな論点について私たちの考え方をとりまとめたものである。

2 大阪・東京両地裁の和解勧告と判決について

 大阪・東京両地裁の判決では,イレッサの添付文書には致死的な間質性肺炎のリスクを警告するうえで不備があったとしてア社の製造物責任法に基 づく責任を認定した。大阪地裁は,添付文書に対する行政指導において,国の対応が不十分であったとしながらも,添付文書が承認審査の対象でないところか ら,国家賠償法に基づく責任までは問わないとした。一方,東京地裁は,国民の健康被害を防止するためには,添付文書に対する行政指導を怠ることは許されな いとして,国家賠償責任法に基づく国の責任を認定した。

 両地裁の判決は,医薬品の副作用について適切な警告を行うべき国と製薬企業の責任に関して明確な決着をつけた点で大きな意義があるといえよ う。一方,地裁判決が,「ア社の製造物責任法上の責任は,同社が緊急安全性情報を配布した(イレッサ発売の3か月後)ことによって免除される」「イレッサ には臨床的有用性が認められる」などとしている点については,さらに詳しい検討を加える必要がある。

 両地裁は,判決に先立つ和解勧告にあたって,「国が治験以外の臨床試験などで見られた副作用症例をも慎重に検討していれば,間質性肺炎で死に 至るリスクも読み取ることができたはずである」との「見解」を表明した。これに対して厚生労働省は,「イレッサ訴訟和解勧告に関する考え方について」 (2011年1月28日,以下「考え方」)を発表し,「…この『見解』を推し進めると,治験外使用がより限定されることとなり,難治状態にあるがん患者の 利益が損なわれる」などと反論した。しかし地裁の「見解」は,単に「拡大アクセスプログラム(EAP)など治験以外の機会に見られた副作用症例も含めて判 断し,情報提供,注意喚起に生かすこと」を求めたものに過ぎず,治験や治験外臨床試験のあり方について何らかの意見を表明したものではないので,「考え 方」の反論はまったく見当違いのものとなっている。がん患者などの未承認薬へのアクセスを問題にするなら,わが国で立ち後れているコンパッショネート使用 制度の整備などに力を注ぐべきであろう。

3 イレッサの有用性について

(1) 臨床試験などのエビデンスを的確に反映した承認と規制措置が行われたのか

 日本におけるイレッサの承認は,第・相試験(IDEAL-1,IDEAL-2)においてイレッサの腫瘍縮小効果などが確認されたことを根拠に している。このためイレッサの承認には,「市販後に国内で第・相試験を実施し,延命効果(生存率,生存期間の改善)を確認すること」との条件が付された。 しかし,承認直後から国外で報告されだした一連の第・相試験(INTACT-1,INTACT-2,ISEL,SWOG)や,承認条件にしたがって国内で 実施されたV-1532試験(2008年)では,いずれもイレッサの延命効果を証明できなかった。多くの第・相試験のうちでINTEREST試験のみが, 生存期間についてイレッサがドセタキセルに対して非劣勢であったとした。しかしこの試験に対しては,被験者に日本人が含まれないことのほか,「“イレッサ のドセタキセルに対する非劣性が証明された”のは,後治療の影響による見かけの効果であり,その影響が現れない初期の期間で比較すると,イレッサによる生 存期間の延長は認められない」などとするデータ解析上の問題点も指摘されている。

 これらの事実に加えて,市販後に間質性肺炎などによる多数の副作用被害が発生したことにより,イレッサのリスク・ベネフィットバランスには,承認時以降 大きな変化が起こっている。 わが国の規制措置は,このような状況の変化を的確に反映したものといえるのであろうか。

 薬事法は国に対して必要に応じて承認の取り消し,承認事項の変更命令などを行うよう定めている。国は,承認条件を満たさない医薬品に対して, これらの規制権限を積極的に行使すべきである。ちなみに米国では,2003年5月,IDEAL-2試験を根拠にイレッサの「迅速承認」を行った。しかし, 承認の条件とした第・相試験(ISEL)で延命効果が証明されなかったため,この承認は2005年6月には事実上取り消されている。2011年2月,ア社 は,「近く米国でのイレッサ承認申請を取り下げ,米国市場から撤退する」との方針を公表している。

(2) EGFR変異陽性例におけるイレッサの有効性について

 近年,イレッサの効果は患者におけるEGFR(上皮成長因子受容体)遺伝子変異の有無に依存するのではないかという考え方が提唱されている。 この点に注目してイレッサと化学療法剤の効果を比較した第・相臨床試験(WJTOG3405,NEJ002,IPASS)では,いずれもEGFR変異陽性 の進行性非小細胞肺がん患者の無増悪生存期間がイレッサ群で有意に改善されたが,全生存期間の有意な改善は確認されていない。一方,EGFR変異陰性患者 におけるイレッサの効果はほぼ完全に否定されている

 以上のような状況を考慮すれば,当面,・イレッサの適応からEGFR変異陰性の患者を除外する,・EGFR変異陽性患者について全生存期間を主要評価項目とするイレッサの比較臨床試験を義務づける,などの措置が必要であると考えられる。

4 イレッサの市販後安全性監視について

 今日,医薬品規制のあり方についての先進各国の共通認識は,「医薬品には必ず副作用がある。しかし,そのすべてを承認前に明らかにすることは 不可能であるため,市販後の安全性監視体制を整備し,副作用リスクの最小化に努める」というところにある。ところが,イレッサ訴訟での和解勧告に対する厚 生労働省の「考え方」や,これと時を同じくして発表された日本肺癌学会などの声明は,「イレッサの副作用は不可避的なものであり,患者がこれを受忍せず関 係者の結果責任を問うことは審査の萎縮や医療の崩壊をもたらす」といった考え方で統一されており,イレッサの副作用被害を抑制するうえで既存の市販後安全 性監視体制がどのように機能したかを検証し,今後の教訓にしようとする見地はまったく見られない。

 イレッサの市販後安全性監視に関して検証すべき事項には次のようなものがある。

(1) 市販直後調査

 2001年に発足した医薬品の市販直後調査制度は,新医薬品の発売にあたって製薬企業が医師などに対して,「・提供する安全管理情報を活用し て,適正な使用に努めること,・重篤な副作用が発生したときは速やかに報告すること」などを,繰り返し依頼し,注意喚起するよう定めている。ソリブジン薬 害の例にも見られるように,一般に新医薬品は,発売直後に使用患者が急増し,患者背景も治験時に比べて多様化することから,治験では判明していなかった重 篤な副作用が発生するリスクも最高となる。この制度は,このことを考慮し,市販直後の時期に集中して安全対策の強化をはかるものとされており,イレッサに も適用されていた。

 しかし,イレッサによる副作用被害の発生を抑止するために,この制度が効果的に機能したとはとても考えられない。たとえば,市販直後調査の期 間は新薬発売後の6か月とされているが,イレッサの副作用による死亡者数は,この調査期間内(2002年7~12月)だけで180人,これに次ぐ2003 年と2004年にはそれぞれ年間202人と175人を数え,この制度が設定している調査期間の5倍の期間を経ても,なお年間3桁台の死亡者が発生する状況 が続いた。

(2) 市販後全例調査

 市販後全例調査は,特定の医薬品について市販直後から使用する全患者を登録し,その使用成績を厚生労働省に報告するよう企業に義務づける制度 である。全例調査では副作用の発生状況を,分母(全使用患者数)を明らかにして把握でき,迅速な安全対策をはかるうえで有用であるだけでなく,医師に慎重 な使用を促し,急激な使用の拡大を抑制するうえでも有効な手段であることが確認されている。

 イレッサの場合,承認時には市販直後調査のみが適用され,全例調査は適用されなかった。その後,その安全性と有効性について重大な疑いが生じ たことから,厚生労働省は「ゲフィチニブ検討会」で対応策を検討した。その会議(2005年3月24日)の席で,ア社が,イレッサ使用患者の実態について 当事者能力を疑わせるようなずさんな報告を行ったことから,委員の一人が「ア社がイレッサの使用と副作用についての情報を掌握していない以上,当面その全 例調査を義務づけるべきである」と提案した。しかし,事務局側の大臣官房審議官や安全対策課長がこの提案への反対を表明し,その方向へ会議を誘導したこと から,この提案が棚上げにされたという経緯がある。厚生労働省が,イレッサへの全例調査の適用に,承認時だけでなく,重大な副作用被害の発生が確認された のちにも,なお強く反対した背景にはどのような事情が存在したのか,あらためて究明される必要がある。

 一方,イレッサと同じ作用機構をもつ肺がん治療薬タルセバには承認時(2007年)に全例調査が義務づけられている。このような規制方針の不 統一のため,タルセバは,イレッサと異なり延命効果が確認されたとして承認されたにもかかわらず,臨床の現場では,イレッサに比べて使いにくいとして敬遠 されるという不合理な状況が生まれている。しかし,この事例は,全例調査が医薬品の節度ある使用をはかるための効果的な手段であることをも示している。今 後,イレッサに限らず,抗がん剤,新たな作用機序をもつ医薬品,治験や海外で重い副作用が見られた医薬品などには全例調査を義務づけるルールを確立する必 要がある。

(3) 緊急安全性情報

 イレッサ訴訟において地裁は,「当初の添付文書には製造物責任法上の欠陥があり,賠償責任が認められるが,この責任は2002年10月に緊急 安全性情報が配布されたことによって免除される」としている。しかし,一般に緊急安全性情報が医療の現場に普及するまでには相当の時間を必要とする。薬事 法(77条の4)では医薬品の製造販売業者は,医薬品の使用によって保健衛生上の危害が発生・拡大するおそれがあるときは,その防止のために廃棄,回収, 販売の停止,情報の提供その他の必要な措置を講じなければならない」と定めており,企業の責任は単に情報を発表しただけでは免れず,国にも企業に対する監 督責任がある。

 イレッサについての緊急安全性情報を発表したのち,その医療現場へ普及を徹底するためにどのような努力が払われたのか,検証する必要がある。

(4) 情報の開示

 厚生労働省の「考え方」では,「間質性肺炎が致死性のものであることは医師にとっては周知の事実である。イレッサの副作用被害が問題となるの は,医療現場でのインフォームド・コンセントが徹底していなかったことによるものである」とし,被害の責任を医師と患者に押しつけている。

 しかし,医療現場で医薬品の副作用リスクを回避するために必要な情報は,添付文書だけでは十分でなく,承認審査の過程で企業が提出した資料の 全容と審議内容を早い時期に公開する必要がある。現在,新医薬品の審査報告書と資料概要が医薬品医療機器総合機構のウェブサイトで公開されるが,開示が遅 れがちで,伏字処理が多用されるなどの問題がある。とりわけイレッサのように,重い副作用が多発し,承認審査の判断の妥当性が問われているような場合に は,審査にかかわる情報の全面的な開示が求められる。

 近年,知的所有権保護の名のもとに情報の開示が拒否されることが少なくない。2003年には,市民団体が国に求めたイレッサ承認審査資料の開 示請求が拒否され,その救済を求める訴訟でも敗訴している。しかし,医薬品の安全性にかかわる情報の開示を拒むことは,公衆衛生の向上と普及をはかるべき 国の役割からして許されることではない。
さらに,薬物治療に関して真のインフォームド・コンセントの成立をはかるためには,企業の行き過ぎたプロモーション活動を監視する一方,医薬品行政組織の 責任によるリスク・コミュニケーション活動を導入し,患者市民が医薬品のリスク・ベネフィットを正しく判断できる条件を整備することも重要であろう。

5 イレッサ訴訟の和解拒否にあたり国が学会などに働きかけ世論操作をはかった問題などについて

 厚生労働省が,地裁の和解勧告に対して発表した「考え方」文書には,参考資料として日本肺癌学会,日本臨床腫瘍学会,日本医学会会長,国立が ん研究センター理事長,日本骨髄腫患者の会などの「和解勧告を受け入れるべきでない」とする声明が添付されている。このうち日本肺癌学会,日本臨床腫瘍学 会の声明は,ア社が和解拒否にあたって発表したプレスリリースにも引用されている。

 後日の調査で,これらの声明は,厚生労働省幹部が自らの立場への世論の誘導をはかるために,一部では「下書き」まで用意して学会などにその発 表を要請したものであることが明らかにされた(いわゆる「下書き事件」)。すでに薬害肝炎事件の検証及び再発防止のための医薬品行政のあり方検討委員会の 「最終提言」(2010年4月)では,「企業と国,大学,医療機関,学会,医師などとのもたれ合い(利益相反等)が薬害事件の背景との指摘もあり,企業並 びに関係者の意識改革が不可欠」であると述べている。「下書き」事件は,この「最終提言」の指摘に正当な根拠があることをあらためて裏付けるものである。

 これ以前にも,厚生労働省の「ゲフィチニブ検討会」は,ISEL試験などによってイレッサの有効性が否定されたことへの対応策として,日本肺 癌学会が作成する「ゲフィチニブ使用に関するガイドライン」に従って,イレッサの使用を続けることを容認した(2005年3月)。しかしその後,この「ガ イドライン」作成委員の一部とア社とが金銭的な関係で結ばれていることが明らかとなっている。残りの作成委員と学会自体については,日本肺癌学会が情報の 開示を拒んでおり,疑惑は解明されないままとなっている。

 このたび明らかとなった「下書き」事件の経緯と責任の所在は,早くから指摘されてきたア社をめぐる利益相反問題とともに,さらに徹底して究明される必要がある。

 私たちは,福島第1原発事故とこれに引き続くさまざまな事態を経験するなかから,この災厄の根源的な原因が,「原子力村」とも呼ばれる政・ 産・官・学・利益共同体が作り上げてきた安全神話にあることを学んだ。多くの薬害の発生にも,国策による国の主導がなかった点を別にすれば,「原子力村」 の縮図ともいえる産・官・学・医の悪しき共同体制がかかわってきたことがすでに明らかにされている。この構図への国民的な批判をいっそう強めることなしに は,薬害根絶の願いを実現することはできない。