人間愛-石館守三先生が残したもの- (第3回)

アスカ薬局(元日本薬剤師会会長) 佐谷圭一

5.石館先生と医薬分業

医薬分業率が今は50%を超えました。明治以来長い時間がかかりましたが、漸く、日本国で定着しようとしています。が、反面医薬分業は二度手間で高くつくとも云われています。石館会長退任の辞を続けましょう。

「私は、朝比奈先生の意志の一部を継いだことも私の悦びと慰めにもなっている。私自身、この悦びと使命感があったればこそ、日薬入りとそして慣れないふりかかる仕事を、別に苦労とも思わず不敏むち打って10余年やってきた。自分ながら感心している。」

日薬会長という職務は大変です。私が4年でギブアップしたのも、四六時中責任を負っている激務だからです。これはストレスとしても大変なことです。それを12年あまり続けてこられた。それも70歳を過ぎてからです。大変な体力と意志の力です。それとキリスト教の信仰心からだと思いますが、石館先生は神の力に支えられて、84歳まで会長職を続けられた。退任の辞を続けます。「至上命令である医薬分業は、漸く軌道に乗りだした。」1982年(昭和57年)のことです。「この軌道上の機関車は、後戻りすることはあり得ないが、渋滞する可能性はないとは云えない。分業の完成にもなお時を要する。」 分業は、半ばを超えましたが、これから先も難事であります。健康保険にはお金が不足してくる。薬剤師は本当に役だっているのか目に見えてこない。一部にはこんな声があります。今から22年も前に先生はこうおつしゃっています。先を続けましょう。

「私の在任中は強制分業を強行し得なかった。」強制分業は医師法の改正を意味します。これは100年戦争とも云われています。明治22年(1889)に薬律が制定された時、医師自らが記した処方せんは医師自ら調剤してよろしい、の文があったために、いわゆる強制分業がなしえなかった。その長い問の薬剤師会の願望であった強制分業に石館先生は、もう一つの柔軟な路線をとろうという、重大な決意をされたのです。「病気に譬えるなら、長期間で成長した悪性腫瘍は、強力な化学療法で処置すれば重篤な副作用に脅かされる。」という譬えをひいておられます。

我が国の医薬分業史を紐解けば、強制分業に移行しようとするたびに強烈な反動がありました。そこでその危険な反動を押さえながら分業を進めていくためにはどうしたら良いかを考えたのです。

石館先生は、昭和45年12月に就任されたのですが、46年1月に医薬分業についての検討会を組織します。その検討会の委員長を務めたのが私の前任会長(第21代)の吉矢佑先生でした。明治時代から分業路線は硬派と軟派があり、それまでの路線はどちらかというと強制分業路線である硬派が優性でした。石館先生も就任時は硬派的考えだったといっています。自分が国会に出て法を変えようとまで決意されたこともあったようです。しかし、この検討会の結論は、潜在技術料と云われた薬のマージンを減らして、医師の処方料や薬剤師の調剤技術料を顕在化させるというという、いわば軟派的な考え方でした。それを、受け止めた石館先生は、その考えを熟成させた後、行動を起こします。

6.武見・石館会談

それから2年後の昭和48年の記録(日本薬剤師会100年史)によると、“5月21日、石館会長は日本医師会を訪問し、武見医師会長と1時間余り分業問題を中心に、現在の諸問題について懇談した。医薬分業問題については基本的には賛成であり、共同施設として調剤センターを設置すること、そして近隣の医師と薬剤師が懇談を進めていくことで意見の一致を見た。”となっています。なぜ私がこの件をここで申ししげるのかと云いますと、普通ならば、薬剤師会長と医師会長が懇談してもさしてニュースにはならないが、この後、薬分業史上にエポックなることが起こるからであります。

その翌年の昭和49年2月に、それまで5点(50円)で動かなかった医師の処方せん料が10点になり、同年10月に50点になったからであります。昭和49年が分業元年と云わるゆえんであります。

この席に当時、日薬専務理事であった望月正作先生が同席されていました。この話をするので望月先生に電話をかけました。望月先生は、ゆっくりと話をされました。「もう、昔のことになりましたが、武見会長と石館会長は医薬分業については、率直に意見交換をしていました。武見会長の結論は、私は分業に賛成だが歴史を考えると直ぐにはというわけにはいかない。まず、環境を整えれば分業は進むだろ。原則的には、自分は分業には賛成である。」との意向だったと。当時、常務理事で後に副会長になられた吉田俊先生にも伺いました。「非分業の下では、医師は薬の責任を取りきれなくなる。そういう時代が必ずくる。そのための準備で処方せんを料を上げてておく必要があると、50点移行時に武見先生はおっしゃっていた。」吉田先生はそう証言されていました。

武見先生は、日蓮宗の信者で信仰心の厚い方であり、石館先生もご存じの通り信仰心の篤いクリスチャンであられましたから、お二人の聞には、「感応同交」(かんのうどうこう)があったと推察しています。いわば阿吽の呼吸のようなものです。感応同交の結果が具体的な点数の改正に繋がったと私は思っています。お二人とも時代を見る目は確かな方々でしたから。

7.フリードリッヒ二世のこと

医薬分業は、1240年、フリードリッヒ二世(当時の神聖ローマ帝国皇帝)が5か条の法令を発布したことによるとされています。フリードリッヒ二世は非常にナイーブな皇帝で変わり者として名を残しています。医薬分業法を発布した真意は、自分への毒殺防止であるとの説や、医師より薬局からの方が医薬品取引の税金が取りやすいなどの説がありますが、いずれにせよ、診断、処方、調剤、死亡診断書という医療の一連の流れの中で、処方せんを第三者の薬剤師にゆだねるという医薬分業制度は、病人のリスクマネージメントという面からは優れた制度だと云われてきました。

今でも、五箇条の法令発布の絵画が残っていますが、その説明文の最後には、”legal responsibilities for each”と記されています。患者のために医師と薬剤師の法的な責任を明確にすることによってより安全性を高める方策なのです。

この問あるテレビ番組で、このフリードリッヒ二世のことを取りしげていたので興味深く見ました。この方は、母がシシリーの王家の出であり、父がドイツ国王なのですが、幼い頃、シシリー島で育ったそうです。当時のシシリー島(及びシシリー半島)は、東西文化の交流点であり、どちらかというとイスラム文化の影響が強かったというのです。特に、フレードリッヒ。二世はイスラムの指導者に可愛がられ、長じてドイツ国王になり、神聖ローマ帝国皇帝になってからも、イスラムの指導者と親交が篤く、彼の統治した40年問は、歴史上、イスラム教国とキリスト救国で戦争がなかった初めにして、最後の期間だと説明されていました。医薬分業というのも初めはイスラム圏で起こった制度らしく、九世紀初頭には、アラビアには独立した個人営業の薬局があったという記述があります。

話は戻りますが石館・武見会談は、結局は、このフリードリッヒ二世の精神に戻ったと考えざるを得ません。時代の先取りをしたのと同時に時代の原点に戻ったわけです。

私が会長になる前、中医協の委員をしていた時に、中医協の会議の最中に中医協の会長から、分業の意義を尋ねられたことがありました。私は、医師会の委員には申し訳ないがと前置きして、フリードリッヒー二世の五箇条の法令発布時の精神を述べました。その時委員の誰からも質問がありませんでした。歴史を知ることは大変重要なことだと今ではつくづく思っています。

 

8.愛は全てを完成する

石館会長時代に薬剤師綱領が制定されています。その中に“薬剤師は、その業務が人の生命健康にかかわることに深く思いを致し、絶えず。薬学・医学の成果を吸収して、人類の福祉に貢献するよう努める”という一文があります。石館先生は色紙に“生命への畏敬”と良くかかれました。今大会のテーマ“命と薬剤師”は、石館先生の精神を引き継ぐものと類家青森県会長がおっしゃっています。生前、石館先生は、若い人たちに向かってよくこう云っていました。“目の前にある小さな仕事を全力で果たし続けよ。その事が大きな仕事である”と。

退任の辞も最後の文章になります。「今、退任に当たっての最大の感慨は、会員諸君には不満が多かったと思うが、私の職業観、人生観、そして処世観に共鳴し、最後まで協力を惜しまなかった執行部役員始め地方にある会員の援助と声援に対し、表現し得ない心からの感、謝を捧げる。愛と誠実こそが全てを完成するという私の人生訓は、日薬の10余年を通じていよいよ証明されたようだ。」この会場には、この言葉を直に聞かれた方々も多数来て頂いていると思います。感無量の想いがあります。

石館先生流に云えば、愛は神のもの、人が持てるものではない。その神の愛に報いる人のできる精一杯のものは誠実でしかない、と。私にはそんな風に聞こえました。石館先生95年の歩みは、誠実そのものであったのです。「神と人に仕えん。」をモットーにした誠実そのものの歩みだったのです。

青森は石館守三先生の故郷であり、郷土資料館には石館先生の他、淡谷のり子さん、棟方志功さん、寺山修司さん、沢田教一さんなど居並んでいる姿を拝見し、青森県出身の方々の粘り強さと素晴らしい感性の持ち宝、素晴らしい人生を送られた人たちと、あらためて賛嘆させていただきました。青森に来て良かった。このような演題を与えられて私は幸せ者だと感謝しております。

ご清聴、ありがとうございました。

※本稿は、平成16年10月10日(日)に、青森市文化会館で開催された第37回日本薬剤師会学術大会特別講演の内容をもとに、加筆したものです。【薬剤学 Vol。65、 No。3 (2005)より】