「噫乎 丹羽藤吉郎先生!」 (その1)

アスカ薬局(元日本薬剤師会会長) 佐谷圭一

大森章座長挨拶

特別講演の2番目でありますが、佐谷圭一元日本薬剤師会会長より、大正から昭和初年まで日本薬剤師会会長を三代にわたり務められた丹羽藤吉郎先生に関する講演を拝聴いたします。
はじめに、佐谷圭一先生の略歴をご紹介させていただきます。
佐谷圭一先生は1938年(昭和13年6月22日)、群馬県のお生まれで、寅年でございます。昭和36年3月に明治薬科大学をご卒業されました。2年後の昭和38年5月に東京都練馬区で(豊島園のちょうど裏門の近く)アスカ薬局を開設され現在に至っております。昭和55年9月から昭和61年4月まで、厚生省の中央薬事審議会の臨時委員5年半を経まして、平成7年の3月から平成10年4月まで、中央社会保険医療審議会の委員をされております。
公職といたしまして、昭和49年4月から昭和59年3月まで(社)日本薬剤師会常務理事、その後4年間、昭和59年4月から昭和63年3月まで(社)日本薬局協励会の副会長をなさいました。また、昭和63年4月から平成10年3月までふたたび(社)日本薬剤師会常務理事をなさっております。ご存じのように平成10年4月から平成14年3月まで(社)日本薬剤師会の第22代会長に就任されておりました。会長を辞されてから、アスカ薬局で只今、現役のバリバリの薬剤師、現職であると先程伺いました。
私も2年半、先生のところで修業させていただき、薬局あるいは薬剤師の原点は佐谷先生のところから始まったと思っておりますので、今日は「分業の神様」と言われております、丹羽藤吉郎先生の生い立ちをはじめ、偉大な功績について佐谷先生がどのような思いで回顧されお話くださるか傾聴すべき特別講演と期待いたしております。では佐谷先生、よろしくお願い致します。

講 演  佐谷圭一元日本薬剤師会会長

 

ただいまご紹介を頂きました佐谷でございます。私は薬史学会の末端の会員ではありますけれども、正式に勉強したわけでもありません。本年の薬史学会年会で、最終の講演をするのは非常に汗顔の至りでありますが、私の思い込み、あるいは間違い等が多出するかと思いますが、先輩の先生方が聴かれて、おかしい点は後でぜひ教えていただければ幸いだと思います。

先程もご紹介がありましたように、私は図らずも第22代日本薬剤師会会長を仰せつかりまして4年間、会長職を務めました。そのときに一番興味を持った方は、石館守三先生でありまして、これは直かに10年間お仕えしたからであります。昨年、青森での日本薬剤師会学術大会で、「石館守三先生の残したもの」ということで話をさせていただきましたが(道薬誌2005年2月号掲載)、それから旬日を経ずして、今回の薬史学会年会にぜひ札幌で話を、という御下命を受けました。山川浩司会長には非常にお世話になっておりますし、これは何とかやらなければならない、ということで覚悟をしたわけであります。そのときに、私が会長として22代と言われたわけですが、振り返ってみて、過去の会長の中で誰に一番興味を持つかというと、石館先生。次いで丹羽藤吉郎先生であります。3代にわたって会長を務められた。何故、3代にわたって会長を務められたのか。そして「分業の神」と言われた先生であります。今、医薬分業は花盛りでありますが、本当にその基本骨格を作られたのは、柴田承桂先生、薬史学会前会長のおじいさまの柴田承桂先生であります。その根を大きく、張ったのが丹羽藤吉郎先生ということでありますが、私は幾つかの疑問を持ちました。

*薬剤誌 追悼号「噫乎 丹羽先生」

実は昭和5年に丹羽藤吉郎先生が現役の会長のままお亡くなりになりました。このスライドは、「噫乎 丹羽先生」という薬剤誌〈第364号〉で、全刊追悼集であります。これを日薬の書庫で発見、というか私がお目にかかったのは、ちょうど会長職を受けて半年位の時でありまして、ショックを受けました。中身を読んでもっとショックを受けました。自分とあまりに雲泥の差のある会長でありますから、大変ショックでありました。
これが日薬に1冊残っている原本であります。あと、内藤記念館にもあると聞いておりますが、そのコピーをとらせていただいて、当時の副会長、常務理事、全員に配り、ぜひこれを読んで、これからの日薬を背負って立つ人は勉強して欲しい、と申し上げたのを覚えておりますが、一番勉強になったのが私であります。

実は、インターネットを引かれた方はよく判ると思うんですが、丹羽先生のお写真は無いんですね。いくら検索しても出てきません。お墓の写真が出てまいります。多摩霊園にある丹羽藤吉郎先生のお墓の写真がポンと出てきますが、丹羽先生のお姿は出てきません。ところが、この祈念号の中には丹羽先生の若かりし頃、明治33年のドイツ留学直前の先生の写真と大正9年の写真、この2枚の写真が載っておりますので、こちらのスライドです。丹羽先生の写真というのは、どうしてインターネットに1枚もないのかは判りませんけれども、載っていないわけです。非常に新進気鋭の、錚々たる先生。昭和5年にお亡くなりになっておりますが、右側はもう晩年、大正9年の写真です。

私は次のような疑問を持ちました。日薬会長を6代、7代、9代と3代にわたり歴史上出てくる先生です。日本薬剤師会の創立記念100周年誌に、第1代の正親町(おおぎまち)伯爵をはじめ歴代会長の写真が出てきますが、6代・7代・9代と3代にわたって会長としてでてまいります。これは何故か。また、佐賀のお生まれでございますが、どうして先生は薬学の道を選ばれることになったのか、というのが1つの疑問であります。それから、実は日本薬剤師会を創設されたのは、丹羽先生なのです。初代会長は正親町伯爵で、やはり薬剤師の先達でありますが、一応先達を立てた、あるいは名のある方を立てて、初代は当然そうですが、2代、3代、4代と下山順一郎先生とか丹波敬三先生とか色々な先達を立てておられ、非常に謙虚な方だと思います。しかし、日本薬剤師会を創設されましたのは丹羽藤吉郎先生であります。

そして「医薬分業の父」あるいは「神」と讃えられたのですが、追悼集には「神」という言葉で出てまいります。そのように讃えられるほどの功績を残されたということでありますが、それは何故か。私にはそれが疑問であります。その謎解きをしたい、ということが今回、この丹羽藤吉郎先生を取り上げさせていただいた理由であります。

資料は3つ探しましたが、これは膨大なものなので、つまみ食いということになります。1つは日本薬剤師会史・創立100年記念誌であります。これに当時の模様がかなり色々出てきます。もう1つは丹羽先生がお創りになって自ら発刊されていた「薬剤誌」という雑誌の、昭和5年5月の追悼号。もう1つは「薬剤誌」に連載された、「維新後の薬学 に関する沿革」と題して何回かに書いておられます。これは丹羽先生の自らの言葉で書いたものです。それらの抜粋がお手許に行っていると思いますので、それを読みながら、私が解答するのではなく、私が疑問を持った、そして解答していただくのは丹羽先生ご自身、乃至追悼した方の文章、私の文章をひと言も交えないでいこう、ということで組み立てました。

幾つか最初に申し上げておきたいことがあります。「薬剤師法令」というのが出てまいります。大正15年の3月18日に発布されました。この薬剤師法令で日本薬剤師会は公法人になるのですが、これは強制加入であります。この時期、薬剤師たるものは日本薬剤師会に全員入会、という強制加入となったのはこの薬剤師法令に基づいてのことです。

「薬局を開設し、もしくは管理し、または調剤に従事する薬剤師は、その薬局または調剤する場所の所在地、薬品営業または売薬営業に従事する薬剤師は、その営業所の所在地を区域とする(都)道府県薬剤師会の会員とする。前項以外の薬剤師はその住所地区を区域とする道府県薬剤師会会員となることを得る。道府県薬剤師会は日本薬剤師会の会員とする。」この条件から、いわゆる強制加入ということになるわけです。

お手許の資料を参考にしていただきますが、6代、7代、そして9代。8代は飛びます。この大正15年3月に交付された薬剤師法によって薬剤師の法的身分が確立した。また、これに基づく薬剤師令の実施から、公法人薬剤師会、(これは強制加入、薬剤師会の歴史の中でここだけだと思います)が、設立されることになった。実はこの時一緒に「医薬法」も出ておりますが、これは混合販売、昔から混合販売は薬剤師の権利かどうかという問題があるわけですが、法文化はできず不成立だったということであります。

この大正15年という年は12月25日に大正天皇が崩御され、「昭和」と改元されて、12月26日から6日間がご存じのように昭和元年になります。丹羽先生は公法人日薬の第7代会長に推されました。6代(大正3年5月~大正15年10月)の任期中にこの薬剤師法令が実施され、公法人となり、そこで最初の公法人の会長に推挙されました。大正15年12月25日、天皇崩御。26日から昭和になり、この6日間の昭和元年も含めて、翌年の昭和2年2月に旧日本薬剤師会を引き継いで日本薬事協会を設立。そして会長を辞してしまわれ、7代はあっという間に終わってしまうということであります。ですからこの任期は、3ヵ月にも満たない。2ヵ月と少しの7代会長でした。ここが1つ大きな問題点です。公法人になったということと、日本薬事協会が元来の日本薬剤師会を引き継いだ形になった。これは1つの内部的な争いもあったと思うのです。分業の急進派と漸進派と言われた人達の内部的な争いもあったのではと思えるのであります。

そのあと、第8代に池口慶三先生が会長になられましたが、池口先生もそういう、内部的な混乱状態に耐えられなかったのだと思うのですが、当時、丹波敬三先生が東薬の学長で、途中で逝去されるのですが、その後に池口先生が行かれるということで、昭和2年2月から3年2月までが池口慶三会長で、その後の1年間が会長空白の時代となっています。たぶん誰も引き受け手がなかった。そこでもう一度、丹羽先生に要請して、昭和4年に第9代の会長になられた。しかし、昭和5年3月12日急性肺炎で逝去されました。この辺が時代の流れと言いますか、日本薬剤師会も混乱期にあったということであります。そういうことを前提にお考えになっていただくといいと思います。

※本稿は、平成17年10月1日(土) に札幌市教育文化会館 4F講堂で開催された日本薬史学会・北海道薬剤師会(共催)での講演内容をもとに、特別寄稿として、道薬誌 Vol.23 No.2 (2006)に掲載されたものです。