「噫乎 丹羽藤吉郎先生!」 (その3)

*「薬剤師」の名称

日本に「薬剤師」という名称が何故生まれたか、これは有名な話で、インターネットで「薬百話」の 中にも入っています。お目に止まった方もずいぶんあると思いますが、「さて今日、薬剤師として我々 が喧々の議を凝らしているが、この薬剤師という呼称の由来から少し話の歩を進めたい」これは薬 剤誌という雑誌の「維新後の薬学に関する沿革」の中で丹羽先生が自らお書きになっていることです。 「人も知る如く、彼の柴田承桂氏」柴田承二先生の祖父で、柴田桂太さんの父上ですが、「承桂氏は我 が薬業界に於ける先覚者であり、且つ指導者である関係上、我々は常に折に触れては駿河台鈴木町 なる同氏宅を訪問しておったのである。」有名な洋風の建築をされて、その後、ドイツの方たちを 面倒見た、という所でありますが、「たしか明治21年の頃と思うが或日予に薬品取扱規則の原稿のよ うなものを見せての話に、内務省衛生局長・長与専斉氏よりの依頼で、独逸の薬制を参考として斯 ようなものをこしらえた。即ち独逸のアポテーカを「薬剤師」と訳したわけだがドーダ」この『ドーダ』 というのが時々出てきます。カナでドーダ、と書いてあります。

「ドーダとの話であるから、自分は寧ろ「薬師」と訳した方が適当ではなかろうかと思うとの意見 を述べた。そうすると其答えに、自分もそうは考えたけれども、何だか、仏様の名前見たいである から、可笑しく聞こえはしまいかと言われ、柴田氏はどこまでも薬剤師と称したいようであるが、予 は飽くまで薬師といいたい、現在のところ名前はどうであろうと、例え与太か権助であろうともそ れは構わない。」と、こういう書き方をしています。  「只将来、有為有力な人が出てくれば何とでも取り返しはつくとしても、自分の考えは医師に対し て薬師と称したいと思うので、このことを主張してみたが、とうとう薬剤師ということに極められ て了った。」と、こう書いてある。柴田承桂先生は丹羽先生の恩師だと思います。柴田先生はドイツ で薬学を学んで帰られて、東京医学校の教授になられる。それが明治7年頃で、6年に丹羽先生が 入学してますから、予科から本科へ行く、本科の方のたぶん教授をされていたのが柴田先生だと。 ですから、師弟の関係にあったのではという感じがします。そういうことで、この「薬剤師」という 名称ができる、というのがこの辺に漂っているニュアンスであります。

日本薬剤師会が何故できたのか、というのが私のまた、大きな疑問でありました。次にこう書か れています。 「次いで医薬の関係はどうなるのであろうか、矢張り分業制度に為るのであるかと念を押した所が、現在の状態に当て嵌まる「取扱規則」を設くるの目的であるから、将来はいざしらず現在ではい ずれかの条項に医師も「当分の内」「薬剤を販売するを得る」の1項を設けねばなるまいといふこと であった。」これが有名な薬律の問題であります。

「当時のことそれもやむを得ざることと思ったので、暇を告げて帰って居った。かようなわけで その後いよいよ法律の草案となって企画されたときは明らかに「当分の内」とあった」という。

これが薬律、薬品営業並びに取締規則の附則第43条と言われるものです。これは明治23年に発布され、22年に色々審議されているわけですが、「医家は自ら診療する患者の処方に限り、当分の間、自宅に於いて薬剤を調合し販売授与することを得 る」というのが、これが原文ですね。これは柴田承桂先生が心血を注いで将来の日本ということを 考えて作られた、と言われる原文であります。これが表に出てきたときに、当分の間、ここでは「当 分の内」という風に丹羽先生、書かれていますが、当分の間が無くなっていた、ということであります。

この「当分の間」が無くなるとどういうことになるかと言いますと、「医家は自ら診療する患者の処方 に限り、自宅に於いて薬剤を調合し販売授与することを得る」つまり、永久法になる。当時、明治20 年代の法律は「当分の内」とか「当分の間」がみんな入っていたんだそうですね。でも、色々話をお 聞きしますと明治22年までは幕末みたいなものだと。帝国議会もまだはっきりしていないし、そこ でその法律が色々作られたのが明治20年に入ってからで、その法律はまだ日本の現状には合わない というものもあって、「当分の間」という文字がかなり入っていた。「当分の間」というのは3年から 5年の間に見直して新しい法律にするという意味で「当分の内」あるいは「当分の間」を入れた、こう いうことなのですが、例外なくこの「薬律」の中にもこの「当分の内」が入っていた。それがいざ日 の目を見たときにこの「当分の内」が削除されたということが、実は日本薬剤師会を創る大きな理由 になった、ということなのです。
「「当分の内」とあった」ということですが、それからこの法律案が内務省で省内会議を経て元老院 (当時法令萬の諮詢府)に廻附され、諮詢府を経て初めて明治22年に発表になり、実施期を23年3月 1日とされて発布されたるを見ると、豈図らん柴田氏が出された草案中に、医師が薬剤を販売する 條項に確かに掲げられてあった「当分の内」という文字が見えない。そこで大いに驚きもし、且つ不 平も満々であったが、最早後の祭りで仕方がない。聞くところに拠れば、元老院にて調査中、長谷川 泰氏、これは医師ですが、「長谷川泰氏の運動された結果、「当分の内」の文字を削除されたといふこ とであった。」ここから薬剤師会と医師会の確執が始まる、1つの大もとでありますが、この23年の 時には手の打ちようがなかった、というふうに書いてあります。

さて斯く「薬品取扱規則即ち法律第十号」薬律でありますが、「~が発布された以上、如何に口惜し くても泣いても怒っても更に手のつけようがなくなったのであります。」と記されています。