「噫乎 丹羽藤吉郎先生!」 (その5)

*医薬分業に情熱

先生が医薬分業に取組んだのは何故か?ということを考えました。先生が大正4年の10月に書かれた「予が医薬分業を主張する理由」これを私は読んで、当たり前のことながらギョッとしたのであります。

「医師に生殺与奪の権ありや、我が国に明治初年以来、即ち化学的薬品を医師が使用する様にな って以来、前に述べし如き誤診、誤薬に関する裁判訴訟が、殆ど起こらなかったのは医師に全くそ の過失がなき為であったろうか。或は社会公衆が医薬の裏面を全然知らざりし故、爰に注意せずし て其儘諦めていたのではなかろうかと考えられる。

吾人は、薬学者の天職として、憐れむべき「無辜の病者」これは有名な言葉でありますが、何の 罪もない病者を無辜の病者と言いますが、「~を救済するの方法を慮らねばならぬ。わが国は明治維 新以来文物制度頓に改まり、大正の聖代に於いては殆ど旧時の俤を止めざる迄に発達進歩したが、 独り医薬取扱上の有様は彼漢方時代の習慣を其儘踏襲し、往々危険な出来事もないではなかったが、 一般公衆が薬品に関する知識の幼稚なると、医師は薬品の知識に精通したるものと過信したると、 この両点から旧習慣は使用薬品が全然一変されても改められず、病者は暗黒裡に葬られてもこれを 発く途がない為め、遺族は涙を呑んで諦めていたのではあるまいか。」

一般公衆は已むを得ないとしても、医師が治療上少しは薬品の知識を有し乍ら、昔の封建時代に 草根木皮を匙加減で調合した習慣を、現今の鋭敏なる薬品の上に押し通しているのは、甚だしき怠 慢であると考える。

封建時代の大名は、下人を見ること塵埃の如く、生殺与奪の権を有っていた。しかし、その権を独断では行わなかったが、今の医師の玄関は意味こそ違え、確かに生殺与奪の権を有っている。而し て独断で「診察、投薬から死亡届」迄なし得ることを考えると、何人も戦慄せずにはいられぬ次第で ある。」
「~茲に於て薬品の調合には治療者たる医師と受薬者たる患者の外、誰か局外にある監督者を必 要としなくてはならぬ。即ち、薬剤師が最も適当なる其任務者である事は、化学的薬品を古くから 使用している文明国の通則である。

然らば、医家に薬剤師を雇入れ、之をして調剤に当たらしむれば宜いかと云うに、夫れ亦可くない。医師の調剤に従う薬剤師は、全然医師からの牽制掣肘されぬ者、即ち医師より俸給を受くる被 雇人でなく全く離れた独立の営業者で、爾も自己利害のために人命の貴重なることを、怠り忘れざ る者でなくては監督の任に堪えない。」こういう文章を実は大正4年の10月に世に発表されたのです。 しかし、ここで言っていることは、これは正に1240年にフレードリッヒ2世が神聖ローマ帝国で 五箇条の法令を出した、ヨーロッパの医薬分業精神、正に毒殺防止法であるということです。故意 か故意でないかに拘わらず、そういうものが必要である。いわゆる医師一人が診断、処方、そして 投薬。そして死亡診断書を書く。こういうことは、非常に文明国としてはまずいということをはっき り述べています。

日本薬剤師会の成立に関しましては、明治24年あるいは25年、3回に亘って行った議会運動、23 年にもやりますが、不首尾に終わって、日本薬剤師連合会では到底、会員の統制が出来ないという ことで私的団体を創る。それが社団になり公法人になるわけです。
明治26年、初代会長の正親町実正伯爵は東京医科大学製薬学科別科の第2回の卒業の薬剤師であります。

このスライドは柴田承桂先生でありますが、結局私は、この丹羽先生にこれらの哲学と言います か、信念を与えたる人は誰かということになるのですが、これは丹羽先生にこの考え方、あるいは かなり誘導されたのは柴田承桂先生ではなかったか。丹羽先生の7歳上、そしてドイツにも先に留 学をされて、政治にも詳しい。年齢、生年が嘉永3年とする説もあるということですが、ここでは 2年となっていますが、薬学者で、父上は名古屋の藩の蘭方医。明治3年、ドイツに留学して、7 年に日本に帰国、東京医学校の初代製薬学科の教授となる。大阪試薬場長とか内務省衛生局員、こ の時代に薬律との関わりが出るんだろうと思うのですが、東京、大阪の試薬場長を歴任した後、西洋 の衛生行政導入に貢献して、我が国最初の日本薬局方公布の編纂にも携わられた。
あるいは、この後、私は非常に堪えたのですが、明治22年、薬律の起草に当たって、医薬分業を目 指したが果たせず、以後、一切の官職を退いた。それ以後はもう、色んな本、博学でいらっしゃい ますので、本をお書きになる。そして、柴田桂太先生、それから柴田承二先生へと、薬学の道が受 け継がれていきますが、柴田承桂先生こそ日本の医薬分業も含めた薬学というものの将来を見越し て設計図を書かれたその人ではないかと思いました。その最高の実践者が、(昭和5年に薬剤師会長 のまま本当にその闘争の中で、日夜全国を走り回って、最後に肺炎で無理をして、倒れられ、現職の 薬剤師会長のまま亡くなられた。)丹羽先生でありました。私は、この話をするに当たって、色々と ある意味では興味津々たるものもあって、調べさせていただきましたが、誠にそういう先達がいて 初めて、今の分業がある。しかし、今の分業には非常に問題もある。やはりこの「丹羽精神」、あるいは 「柴田精神」に還らなければ、今の日本の分業も、私は薬剤師としてこの先生方から叱られそうな気 がします。もう一度歴史を辿りながら、先達の精神を学びかえす、そういうことを若い人達も受け継いで行って欲しいと念願する所以であります。
以上、短時間、手短かでありましたが、これをもって終わりとさせて頂きます。  どうもご静聴ありがとうございました。

(文責:日沼 義一)

※本稿は、平成17年10月1日(土) に札幌市教育文化会館 4F講堂で開催された日本薬史学会・北海道薬剤師会(共催)での講演内容をもとに、特別寄稿として、道薬誌 Vol.23 No.2 (2006)に掲載されたものです。