「噫乎 丹羽藤吉郎先生!」 (その2)

*佐賀藩出身の貢進生

先生は、安政3年、佐賀県の生まれ。佐賀藩校 を経て明治11年、東京大学医科大学製薬学科を卒業されて、薬学博士、東京大学教授、薬品製造学 の権威であり、東大医学部附属病院の有名な薬局長で、第二病院というのがありましたが、そこに 模範薬局を創られました。又、全国病院薬局長会議の創始、日本薬剤師会会長も3代にわたって務 められ、日本薬事協会の会長もされて、日本薬学会の会頭もされました。そしてまた、医薬分業の 急進派の総帥として生涯をこの医薬分業の確立のために献身されて亡くなられました。

先生は佐賀藩の抜擢により貢進生として上京されたのですが、この貢進生というのは明治3年だ けにあった制度です。明治3年の7月27日に、太政官から各藩に人材を大学南校に貢進をせよと、「貢 ぎ、進める」という、要するに明治という国家を創るために、各藩から人材を国に出せ、というこ とだろうと思います。それに応じて各藩が優秀で壮健な16歳以上20歳までの男子が15万石以上の藩 からは3名、5万石以上の藩からは2名、5万石未満の藩からは1名が貢進生として選抜されたの が、この明治3年でありまして、先生はその1人だったわけです。

この貢進生制度というのは、藩は貢進生1人当たりの学費として1ヵ月10両を下らない資金を援 助して、書籍代として年間50両を大学南校に納入しなければならなかった。この年の10月に各藩か ら選ばれた貢進生は319人に上る。しかしこの制度は1年で廃止になって、翌年からはなくなった。 丹羽藤吉郎先生はこの時に佐賀藩から出た貢進生の1人、非常に優秀なので推薦されたのでありま す。

 私がこの丹羽先生に興味を持ったもう1つの理由があります。この昭和5年に出た追悼号の中の 福田福太郎氏の追悼文、この人はたぶん薬局だと思いますが、群馬県から出た方で私と同郷なので、 興味を持ったのですが、以下は追悼文のある部分です。「先生の人と為りは、独り薬学薬業界のみで はなく、一般に憬仰措かぬ所で、情義頗る厚く一面満々たる侠気が迸って居て、所謂古武士の典型 があった。従って又、名利聞達を求めず實に恬淡な方で、既に明治20年の頃、教授栄進の期至れる に拘わらず之を他に譲り、爾来三十余年間平然として一助教授の地位に甘んじ、この間進んで学会 のため長井長義氏を教授に推し、その他屡々栄進の機に会しながら、毎に他人の為に之を計り、自 らは飽くまで薬学薬業の開発普及のために精進されるのみであった。その高潔なる風格は實にじつ に欽仰措き能わぬ所で、今に彷彿としてあの気高き温容が眼前に浮かぶのである。又と得難いこの 大先生を亡った我薬学薬業界は、今後果たして何人が先生の意を承けて目的達成に邁進して頂くで あろうか、あれやこれやと真に感慨無量である。」こういう文章が追悼文で出されています。私の心 に強く響いたのは、会長になっていたときでありますが、「今後果たして何人が先生の意を承けて目 的達成に邁進」するのか、という福田福太郎氏の叫びが聞こえたのであります。これを私が受けま しょう、と私は心に誓ったのであります。この先生の精神を受けていきましょうと。

「薬学薬業」、初めて丹羽先生が薬学と薬業というもの2つを結びつけて、両方とも会長として率 いて、両方とも発展させようと努力をされたわけであります。貢進生として出てきた先生が、いか にして薬学の道に進まれたのだろう、つまり、どうして薬学へ入られたかというのも1つの私の大 きな疑問でありました。先生への追悼文の中に、第10代の日薬会長になられた高橋三郎先生の追悼 文が載っています。

「君は明治初年佐賀藩の抜擢により貢進生として、笈を負いて上京し、」笈というのは、昔、竹で 編んだ籠だと思いますが、「今の大学の起源なる開成所に入りドイツ人教師を師としてドイツ国の学 風に従ってまず同国の小学課程を授けられた。学業進んで中学の課程に及んだ時、開成所は第一番 中学と改称せられ、更に明治6年、学制の大改革あるに際し昇格して大学南校となり、生徒は夫々 欲する所の専門学科を選ぶべきことを命ぜられたが、同時に独逸語を以て教授することを廃止され たる為、従来独逸語を以て学びたる生徒の困惑一方ならずであった。其際偶々大学東校に製薬学科 を新設されたるを以て、君は多数の同窓者と共に同校に転学し、独逸人を師とし予科本科を経て明 治11年卒業し、東校の後身たる東京大学医学部に於いて製薬士の学位を受領したのである。爾来介 補・助手・助教授・教授の職を奉じ、引退して名誉教授となり、及び其後に至るまで五十有余年長 き歳月の間、終始一貫毫も初志を変えず、薬学薬業の発展伸張に尽瘁されたるは、我ら業界に従事 する者の真に崇敬すべき人格者であったと謂わざるを得ない。」これは非常に端的に表現されている と思います。幕末から明治初年の頃は、外科・内科のホフマン・ミューレルというドクターを(明 治4年頃のことですが)、ドイツから招聘して、ドイツ語で行こうかという時に、どうしてドイツ語 を廃して英語になったかということなのですが、日本から、当時明治の元勲になられた十数名の方々 がロンドン大学に非常に短期間ですが留学した、その記念碑を建てるということで、実は私、雅楽 をやってましたので、その雅楽の団体としてそこで演奏をということで、ロンドン大学へ行って来 たことがあります。

 急にドイツ語から、英語に乗り換える、と言っては何なんですが、ドイツが一番進んでると思っ たらそうではなくて、英国の方がどうも進んでいる、ということでこの明治の初期に、これからは 英語で行く、ということになったようなのですが、それまでドイツ語で貢進生はやってきた。急に英 語になるということで非常に困惑した、とこの文章で判るのです。南校が先でしたが、そうこうし ているうちに東校ができて、製薬学科ができた。ここはドイツ語でやるということから、それでは ドイツ語を学んだのだから、ということで何名かの方達とドイツ語の方へ入ってきたというところ があるように推察されます。あくまでも推察でありますが。どうもそういう時代の流れに沿って、 しかし、その反骨精神は最初からあったのでしょう、葉隠れ精神でありますから、そういう意味で 製薬学科に入った。時代の大きな転換期に、ある意味棹を差したのでしょうが、しかしそれが薬学 へ行く1つの大きな転機となったようにお見受けします。