「噫乎 丹羽藤吉郎先生!」 (その4)

*医薬分業に危機-薬剤師会結成

「これに先んじて、予の考えに浮かんで居ったことは、未来の薬業者は到底今日の有様で置くべき でない、専門の学術も益々進歩させると同時に、業務についても大いに発展を期せねばならぬ、こ の為には同好同学者の一致協力に俟つことである。即ち国体的行動の下に歩調を整えて進むことが肝 要であると思って居ったのである。然るに当時明治十六、七年頃に於ける薬業者の団体としては、 東京に僅かに「薬舗会」と称ふる小会合が一つ催されてあったのみである。が、先ずこの会合を盛大 にし意義あらしめようと思って、この薬舗会の人々にもっと盛んに努力するようにと屡々勧説を試み たのであるが、一向に捗かしくない。

そこで已むを得ず別働隊を組織せしむることとした。その応 援者としては、故森島松兵衛氏の細君の兄弟に当たる故矢野某氏や故国友保民氏、故伊藤修郎氏、 喜多野金助氏等の諸君で、氏等の応援で、表面法律には発布されていないけれども、薬剤師という ことは判っているから「薬剤師協会」という名称の下に簡単な規則を編み、例会を催すこととなった。」 これが薬剤師会の一番の最初だろうと思います。

「然るに稍々暫くすると、薬舗会の主なる人々、」最初の方は、知っていた方があれば教えて頂きた いのですが、たぶん学者の方が中心じゃないかと思われます。そういう方々が中心になって薬剤師 協会というものを最初に創ったのだが、いわゆる薬舗会の業界、今で言う薬局の人達、「故森島松兵 衛氏、故竹内久兵衛氏、故雨宮綾太郎氏、堀井勘兵衛氏、比留屋小六氏等の諸氏が大学に押しかけてきて、別に会を組織なさらなくても、我々と一同に行って貰いたいという話である。

そこで、諸 君が其意志であるならば、我々も素より願う所であるといふので、茲に一同会合して「東京薬剤師 会」という名称に改め、互いに学術側は学術の話を、業務側は業務の話を各々持出して継続して居った。 かくして推移され、明治二十三年になって「東京薬剤師会」が発起となり、全国薬剤師会の懇親会 を東京で開催することになって盛大な会合が行われた。此の懇親会は実に全国的に行われた初めて の会合であって、互いに共同一致、同一の目的に同一歩調を以て進むという気分が萌し、大いにそ の結束を固うするようになった」明治23年に「当分の間」がとられたということが契機となって、こ の、いわば政治運動、私が薬剤師会の会長になったときに、藤井先生の政治の問題もありまして、 日本薬剤師会はもともと政治団体です、と全国で言ったこともありました。学術団体、ということ もありますが、それよりも政治団体として基盤が非常に強かった。薬律の問題というのはここにあ るのです。

丹羽先生はご存じのように、明治19年に医学部の製造薬学科が廃止されるというときに、これも 「薬剤誌」の中に出てきますが、当時の文部大臣の森有礼とこの交渉をする。下山・丹波両先生はド イツへ留学されて居ない。東京大学には助教授で自分しか薬学科を任されている者はいない。そこ で国家が薬学科を無くしてしまう、ということで実際に、ある日突然無くなってしまった、という ことがあるのですが、そこを何とかしようということで、自ら独り、森有礼文部大臣に会いに行く 下りがあります。佐賀の「葉隠れ武士」であるから、ということで短刀を懐に入れて、そしてこの話が 決裂すれば、刺し殺すのか自分が死ぬのか、どうか判りませんが、その覚悟で行った、と実際にこの文章の中に出てまいります。ところが、この森文部大臣と会って話してみたら、大変話のわかる 人で、自分は良くそういうことを知らなかったと。

薬学というものが明治の初めにドイツから入って来たときに、日本国中に黒船によってもたらさ れた偽医薬品、あるいは非常に質の悪い医薬品が出回ったのです。西洋医学だけが先に入ってきて、 薬学が入ってきていないために、向こうで使えなくなった医薬品を黒船がどんどん持って来た、と ある本に書いてありますが、それで副作用のために、東京市民を含めてもう、大変な数の人達が、 亡くなっていった。ところが、これを鑑別する術がない。これをどうしたらいいかという時に、ミ ューレルの「建白書」というのが出ます。これが明治4年にドイツでは薬学者でもある「薬剤師」が育 っていて、製薬から医薬品の鑑別を含めて全部行う。医薬分業もやっている。ということで日本はドイツに習いたければ、ドイツからそういう薬学の先生を呼んで、薬学者(薬剤師)を作らなければ 駄目だ、と建白されたわけですが、その1つのきっかけとなったのが、黒船によってもたらされた 副作用、と言われているわけです。

そのことを含めて、薬学はまず医薬品の鑑別、そして日本で製 薬業を興さなければ駄目だと。それから局方、局方は明治16年だったでしょうか、そのときにはあ る程度のことはできていたと思われますが、局方を作り、日本そのものが製薬業というものを起こ さなければならない。大日本製薬が設立されたのもそういう理由だと聞いておりますが、半官半民 という形で「大日本」という名前を冠して大日本製薬が作られた。長井先生がドイツから技師長とし て帰朝される、というような色んな経緯があったということです。

とにかく、日本国を憂いて、そ して薬学の興隆を図ったのは間違いないのです。先ず分析をやり、製薬企業を興し、その次に医薬分業というものを頭の中に描かれていた、ということであります。ところがその医薬分業運動は23 年に発布された薬律によって医師による調剤が永久法にされたために、なかなかそれが出来ない。 そこに非常に腐心をする。最後はこの医薬分業を日本で行うために多くの政治家とも様々な交渉を し、上手く行きそうになるとまた、潰されてしまう…。当時の医師会とも色んな確執の中で浮きつ 沈みつということがあったわけです。

 

 ※本稿は、平成17年10月1日(土) に札幌市教育文化会館 4F講堂で開催された日本薬史学会・北海道薬剤師会(共催)での講演内容をもとに、特別寄稿として、道薬誌 Vol.23 No.2 (2006)に掲載されたものです。