十文字革命動機と方法論 (1)

アスカ薬局(元日本薬剤師会会長) 佐谷圭一

薬のカルテ

私が薬局を開業したのは、1963年だが、その時、疑問に思っていたのが、医師には「カルテ」があるのに、なぜ薬局の薬剤師は「薬のカルテ」を持っていないのかという事だった。翌1964年から、私は自分なりの「薬のカルテ」を作り始めた。この頃は、日本はまだ「医薬分業」にはほど遠く、議論はされていたがほんの一部を除いて実践は皆無に近かった。 当時、私が始めたのは、セルフメディケーションの一端だった。「一般薬」を購入するに当たって「薬剤師」に相談にくる「クライアント」に絞って、そのクライアントの住所・氏名・電話番号・相談内容・アレルギーの有無・薬での副作用の経験・運転の有無・併用薬の有無・受診勧告・販売した薬等を記載したいわゆる「薬のカルテ」を作成した。また、その結果を知るために、クライアントの了解の上にタイミングを計って電話をかけ、薬をのんで経過はどうか(受診勧告をした場合には、実際に受診したかどうか。)などを調査し、「薬のカルテ」に記載していった。

医薬分業の幕開け

この試行は10年間余に及んだが、その間「医薬分業」の足音は次第に近づき、私は、近隣の「歯科医師」との分業体験を元に「日本薬剤師会誌」に分業時代の「薬局薬歴のあり方」を提唱した。1974年、このことが機縁となり、私は日本薬剤師会の常務理事に指名され「薬歴の普及」を仰せつかった。(時の日薬会長が石館守三先生である。) それから11年後の1985年、全国の同志の協力の成果が実り、「薬歴業務」に史上初の保険点数が付いた。いわゆる「インテリジェントフィー」の幕開けであった。

分業は1974年(昭和49年・分業元年)以来、順調な伸びを示し、私が会長になった二期目の2000年には分業率は40%近くに上がっていた。しかし、私には悩みがあった。「薬歴」における「核心になる薬剤師の役割」は、薬を使用する際の「リスクマネジメント」ではないかと思いながら、なかなかその糸口がつかめないでいた。

日薬では、会長時代に「SOAP」方式での薬歴記載を試みたが、これを実践するに当たって、最も大きな壁は、実は薬剤師が得意とする「objective」(客観的な情報)の検索に時間がかかりすぎるというものだった。なにしろ相手は1万4千品目にも上る医薬品情報だ。処方せんを持ってきた患者さんを目の前にして添付文書の全てに目を通していては時間が足りないのだ。

本稿は、田辺三菱製薬 医療関係者会員サイト(旧:タナベメディカルファインダー 企画:ハイブリッジ)へ連載していたものを転載しています。